アストロラーブ観測

(Zの会誌)

    谷川清隆

わたしは1978年4月1日に, 緯度観測所の研究員として採用された. そのときすでに33歳だった. 強く推薦してくれた方がいたので就職できた. 直接は, ある学会会場で, 当時の極運動研究部長の弓 滋さんに呼び止められて 「君は観測やる気はあるかね?」「はい, あります」で決まった. 上司になるはずの横山紘一さんもわたしがどんな人間かチェックに来た. 東京は渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)で, 昔なじみの真鍋盛二さんを交えて飲んだ. 人間は悪くない. これはわたしの数少ない取り柄のひとつのはずだ. 「仕方ないか」これが横山さんの感想. 「来るのかよ」これが真鍋さんの素直な 気持ち.

観測はアストロラーブに割り振られた. 旧知の笹尾哲夫さんが長期海外出張に 出かけるので, その補充の意味もあったようだ. これは観測野帳を見て気づいた ことだ. 観測者には1番, 2番, ... と番号が ついている. わたしが観測に加わったときは, 5番が一番古株で, わたしは10番. わたしの後に11番観測者が加わり, これで最後であった. アストロラーブを観測したのは11人ということだ. 5番は酒井 俐, 6番は堀合幸次, 7番は笹尾哲夫, 8番は佐藤克久, 9番は岩舘健三郎, 10番はわたし谷川清隆, 11番は真鍋盛二, の各氏であった. わたし自身は1978年7月7日から練習観測を始め, 練習観測中の8月11日のデータ がはじめて観測結果として採用され, さらに練習を続け, 12回の練習のあと, 1978年の10月から本観測のメンバーになった. 観測者は5人なので, 5日に一度当番が回ってくる.

水沢緯度観測所では, 眼視天頂儀 (VZT), 浮遊天頂儀 (FZT), 写真天頂筒 (PZT), アストロラーブ, の4つの望遠鏡で緯度変化, 極運動変化の観測を毎日行なっていた. どの望遠鏡も5日に当番1回のペースで回せば, 20人の観測者が必要である. 所員は事務方も含めて50名ほどであったから, 天文観測者は大きな割合を占めて いた. 観測者としては他に, 気象, 地震, 海洋潮汐, 固体潮汐, 重力などの 専門家がいた. かつての観測者で管理職になっている方が何人かいる. これに工作室の技術者が加わる. というわけで, 緯度観測所は, 観測者・技術者の 集まりであった. 眼視天頂儀の観測者の地位は観測者の間で高く, 観測控え室 の真中に大きな椅子を置いて, ゆうゆうと次の星を待っていた. ただし, わたしが参加したころはその権威も衰えていたと思う. アストロラーブ観測者は休憩時間の10分程度, この控え室に来て, 片隅の椅子に坐り 会話に参加するかテレビを見る.

天の北極を中心として, 西瓜の線のように, 天球を縦割りに12個に区切り, 各区切りの中に, 望遠鏡に応じて星をいくつか選んで「群」とする. 天球上に 12群が決まる. 地球は一日に平均して1度弱太陽のまわりを公転する. 太陽の北 極に坐って見ていると, 地球は西から東に回っている. 逆に地球から見ると, 太陽は天球上を西から東に1度弱動く. そのために, 太陽の日周運動を 基準に測ると, 天球は1日に1度弱ずつ西にずれる. 日の出を基準にすると, 星の出は毎日1度弱ずつ早くなる. 1ヶ月経つと, 30度 (時間にして2時間) 星の出が早くなる. これで, 天球を12の区画に分けた理由がわかる.

もう一度いうと, 星座は季節とともに, どんどん東の空から早めに出てくる. たとえば, オリオン座は, 冬の代表的星座だ. 10月初旬午後8時ごろ, すばるが 東の地平線から出てくる. 2時間ほどすると牡牛座のアルデバランが出現し, 真 夜中近く, オリオンが出る. 秋も深まって11月も半ばになると, すばるは午後6 時には見える. 9時ごろにはオリオン全体が地平線上に姿を現わす. シリウスが 見えるのは午後11時だから, 多くの人はこれを見ない. 正月には, 午後6時, すばるはすでに中天にかかっている. オリオンは全身を見せている. 午後9時にはすばるは南中する. オリオンが南中するのは午後11時であるから, この季節はまだ冬の星座の最高潮ではない. 2月半ば, 一番寒い季節, 午後8時に オリオン座は南中する. このときリゲルやベテルギュース, そして最後に大いぬ座のシリウスがいて全天を圧する. すばるは西空高く 群れている. 振り向いて北の空を見ると, このとき, 北極星を挟んで 東に北斗七星, 西にカシオペアが同じような高さにある.

アストロラーブでは30個弱の星を1群とする. 1区画に30個弱. 30度の幅だから, 2時間の観測である. 1晩に3つの群を観測する. 6時間だ. 1群の観測時間は実質的に100分. 開始前に10分, 終了後に10分の余裕がある. ただし, 作業があるから, 20分の休憩はない. 観測前と観測後に室温, 気圧, 百葉箱の気温を測る. また水銀を水平鏡として 使うので, 望遠鏡の覆いを取って, 水銀を皿の上に注ぐ. 月始めの6日または7日, 新たな3群を始めるときには, 観測は 午後9時から11時, 午後11時から午前1時, 午前1時から午前3時と行なう. 1ヶ月間, 同一の3群を観測していると, 月の終りには, ほぼ2時間, 観測開始 時刻が早まる. そこで, 次の月には, 最初の群を捨て, 三番目に新たな群を 付け加える. わたしの練習観測は, 当番の観測者が観測を始める前に, 捨てら れた群を観測したのである. 練習観測は月始めには午後7時から9時. 月の終りには 午後5時から7時になる. 夏は午後5時では明るいので, 練習にならない.

アストロラーブの観測室は直径5mの円筒形のアルミの屋でアルミの六角屋根が 乗っている. 入口は東側, 部屋の中央に望遠鏡, 西奧に水銀入れ. 入口を出ると 百葉箱が3mのところにある. こじんまりした構成. その日の観測が始まる前に来て 屋根を開け外気になじませる. 観測中は屋根は開けっぱなし. 4分弱にひとつの 星を測るので, 椅子に坐ったまま, あるいは観測室の中で熊のように歩きながら 次の星を待つ. 夏は強力な蚊がシャツの上から血を吸う. 冬は南極観測隊の着る 防寒服防寒靴の足の先から寒気が登ってくる. 夏の夜, 突然ばさばさと大きな 羽音が起こり, 驚いて思わず体が痙攣する. 雉が何かに追われて空を飛ぶのだろう.

望遠鏡は鉛直軸のまわりに時計回り180度, 反時計回り180度まわる. 東の星の 場合は地平線から上がってきて高度を60度を横切るとき, 西の星の場合は, 60度より高いところから60度を下に横切る瞬間を捉える. その瞬間の時刻と 方位角, この2つがデータとなる. 星の天球上での位置がわかっているから, われらが場所の高度60度の小円が1群2時間の間の適当なある瞬間に, 天球を 基準にしてにどちらを向いているかがわかる. そして簡単な計算により, その瞬間に自転軸がどちらを向いているかがわかる. また昨日に比べて自転が 速かったか遅かったかがわかる.

ダンジョンアストロラーブという機械の場合, 大きなプリズムで星からの光を 2つに分ける. ひとつは上から直接, もうひとつは, 一度水銀面で反射して プリズムに入る. 2つの光線は方解石でできたウォラストンプリズムに入る. その結果, 視野の中で, 星像が上からひとつ, 下からひとつ現われる. それが一致する直前に, 星像を90度傾ける. かねて用意のモーターで ウォラストンプリズムを動かすと, 水平に並んだ星像は, そのまま視野の中で 水平方向に動く. 観測者は, 2つの星像のその姿勢を保ったまま追いかける. 南天の星は動きが速いので20秒間, 北天の星は60秒間追いかける. 高度は 60度前後の130角度秒.

北緯38度3分線上, 緯度観測所の敷地の南北のほぼ中央に, 東からアストロラーブ, 50mほどの間隔をおいてPZT, さらにそれぞれ20mほどの間隔をおいてVZT, FZTと 並ぶ. 本館は北にあり, 観測者の多くは3階の南向きの部屋にいるので, 窓から夏は青々とした敷地と, その中に点在する観測室, 冬は雪に覆われた 敷地と観測室へと続く足跡を見ることができた. 長い冬が終ると, 官舎の 子供達が現われて, こちらで群れたかと 思うと, いつの間にか遠くの木々の間を走り回っている. 泣いたり笑ったり. ときには自転車や三輪車の列を作ったりする. 職員は仕事中の手をふと休めてその光景をしばらく楽しんでから ふたたび仕事を始める. ムクドリの親子が巣立ちの練習をする. 雉がけーんけーんと鳴き, カッコウが突然鳴きだす. このような時代にわれわれは観測していた. 4つの観測装置から毎日出されるデータの意義が 失われることなど露ほども疑わずにいた.

さて野帳には観測中のコメントが記されていることがある. 多いのは「地震」である. 水銀に光を反射させるので, 地震で水銀面が揺れると 星像も激しくゆれる. 星像は視野から出て行き, 戻って来て別の方から出て行く. 測定は不可能. 一方, 上空の気流が不安定のとき, 星がダンスする. これ は水銀面には関係ない. このとき, dancingあるいはvibratingとのコメントがある. 意外なことに, 曇る寸前は, 星像はゆれない. 快晴とあるときは, 個々の星の 観測に何のコメントもない. このようなときには, 無心で観測する.

その日全体のコメントは, 「月あり」, 「イメージ悪し」, 「霧」, 「百葉箱のファン動かず」, 「calm」, 「風強し」, 「うすぐもあり」, 「露」, 「空, 明るい」, 「上空, もや」, 「地震雲?」, 「hazy」, 「明日は釣り大会」, 「忘年会」, 「快晴」, 「満月に近し」 「ちぎれ雲しばしば通過」,「低気圧の目か?」,「星像非常に良く,安定している」, 「雲北東へ, そして南西へ」「透明度よし」,「五等星は月明かりで見にくい」 「全天にうすぐも」, 「北西より雲」, 「大きな流星」, 「谷川流の星入れ」, 「秋田沖地震, 余震で像ゆれる」,「寒くて蚊もいない」, 「月, 明るい」

「地震雲?」については言いたいことがある. 1979年5月21日, 恒星時15時59分21 秒からの観測時に小さい地震があった. ただし, 観測はできた. 星像の動き は小さかったようだ. 16時20分06秒からの観測に大きな地震があた. 不思議な ことに観測はうまくいっている. 次の星は星像が動いてダメ. これは余震. 大きな揺れのとき観測室を飛び出して空を見上げると, ぽっかり雲が浮いている. 地震に関係あると思った. なぜなら, 地震後, 消滅してしまったからだ. 地面が太鼓のように上下振動すれば, 空気が強く上に押されて上昇し, 雲が発生してもおかしくない. ただし, 観測者も含めて近くの人は誰も信用しなかった. そうかもしれないが, そうでないかもしれぬ. 見たのはわたしだけだから.

「忘年会」というコメントが1979年12月18日にある. このコメントの気持ちは よく理解できる. 当番にあたってしまった. 職員の多くは忘年会を楽しんでいる. 残念だけれど, 仕方がない. 職員の1泊旅行. 釣り大会. 運動会. スキー. 外部 のスポーツ大会. テニスやソフトボール. いくつも行事があり, その度に, 当番の観測者はじっと我慢する. 外から大勢で 帰って来て, 研修室で, あるいは野外で酒盛りが始まる. 当番の観測者は話し には加わるが酒は飲めない. わたしにも1回だけ失敗がある. 観測者達は, 酒を勧めないことにしている. だが, あるとき, 大丈夫だよ, 今夜は曇るよ. これが落し穴. すっかり酔ってしまった. ところが晴れた. とうとう, 観測を代ってもらった.

意外なものが見える. 望遠鏡の視野を高い人工衛星が横切る. また月夜に, 視野を渡り鳥がとおる. へえー. こんなに高いところを飛んでいるとは! 西の焼石岳を越えて雲が押し寄せて来る. ところが天頂付近で雲は消えて しまう. 西半分の星の観測はできない. 中途半端な気持ちのまま観測を 続ける.一方, 気分が高揚することはもちろんある. 米国帰りの笹尾さんが テープレコーダーを控え室に用意してくれた. 観測室にスピーカーを置く. 中島みゆき「時代」, 長渕 剛「乾杯」や「順子」を観測者は好んで聞いた. ま た世良公則「あんたのバラード」や「宿無し」 黙って聞くだけ? そんなことは ない. 他の観測者は控え室での時間が長い. アストロラーブ観測者はほとんど 観測室で過ごす. 少しぐらい声を出しても他の人に聞こえやしない.

野帳にはほかにいくつも簡単な観察や感想がある. 「部分日食」, 「運動会」, 「火事さわぎ」,「息子1歳半」,「西, 流れ星」などなど. 気象記録も有用だ. 観測室内気温の低い記録は, 1981年1月14日, 恒星時04時59分は-10.7度, 06時53分は-12.5度, 恒星時08時52分は-11.2度, 10時53分は-11.3度 であった. 暑い方は, 1984年7月31日, 恒星時17時10分は25.8度, 18時44分は 24.5度, 恒星時20時44分は23.4度, 22時16分は22.5度. 真夜中になっても気温が 下がらない.

1980年7月23日はユリウス日2444444. お祭好きの阿部茂さんの音頭で観測者 達はこれを祝った. アストロラーブは1984年10月28日の観測が最後だった. とくに意味はないが ユリウス日(JD)は2446002であった. そしてアストロラーブ最後の観測に際して, 野帳にコメントがある. 1984年10月26日の酒井 俐さんは, 「Danjon サヨナラ観測, 17年と3ヶ月, 長いような短いような, ホッとしたような, 淋しいような, うれしいような, 悲しいような」 そして観測後に, 「終りました!!」 10月27日, 岩舘健三郎さんは, 'End'. 10月28日, 堀合幸次さんは, 「ごくろうさん. ダンジョン!! やりとげし責務とともにテクニック. やり直しのきかぬ仕事を終える喜び. 誰に言わんや, わが心. 主なくても泣くなダンジョン!! 」

こうして夢のような時代は終ってしまいました.

(2007年6月4日)


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