日本語と日本の科学

天文月報, 96巻, 443 - 452, 2003

    谷川清隆

日本国内の日本人研究者は日本語で天文学や物理学, 数学の問題を発想し, 日本語で議論を進めているのに外国語で論文を書く. しかもこれが天文学や物理学, 数学に限らず, 数理科学の諸分野の現状である. この状況が何十年も続いており, 日本の数理科学の内容や発展の仕方に 大きな影響を与えている. 科学政策の決定, 科学を専門としない人びとと科学との関係, 後継者の育成問題など, 日本の数理科学は長年の間, この状況に起因する多くの問題点や矛盾点を抱えたまま進展してきた. 問題点は識者により繰り返し指摘されてきたが解決策は見えなかった.

本小論では, 日本の数理科学の上記問題点のいくつかを取り上げて分析し, それを解決するために筆者自身が提案する活動を紹介する. 解決はひとりの 力では不可能である. 最近の通信技術の進歩を受けて, 個々の研究者が少しだけ筆者の提案する活動を, おそらくいままでの努力に 10%程度上積みするだけで, 状況を大きく改善することが可能である. 提案自体は単純である. 外国語で論文を書くことを止めることはできない. 少し余分な努力を払って 日本語の文献を増やそう. これが提案である. この文章は, その改善方向へ向かっておそるおそる踏み出した一歩を多数の 人々の一歩に変えるための呼びかけにもなっている. 以下では天文学や物理学と言う代りに, 数理科学という用語を使うことにする. 分野によって程度の差こそあれ, 国際競争にさらされた数理科学一般にここでの 考察内容があてはまると筆者が考えるからである.

この小論には筆者の誤解, 独断, 偏見などが入り混じっている可能性があるので, 読者諸氏のご批判を仰ぎたい. また, この小論が論議を巻き起こすことになれば 幸いである.

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資料: 文科系の学会
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I. 問題点


筆者の見るところ, 日本の科学, あるいは筆者が直接肌で感じる日本の 天文学は戦後, 右肩上がりに発展してきた. 日本の科学は, 湯川秀樹や 朝永振一郎が活躍したころの英雄時代に比べてだらしがない, と苦言を呈する人もいる. だが, 科学も規模が本質的に重要である. ここでいう規模は人的資源の規模である. 天文学に限って言えば, 1972年の学会講演数は, 単一講演室で, 春に123, 秋に100であった. 2002年は, 複数講演室でポスター発表も含めて春に498, 秋に591であった. 研究者の数は急激に増加している. 30年前は403(特別会員数), 2002年度は 1445(正会員)である. 2000年度には47人が博士号を取得したから, 天文学者の数は急速に増えている. 日本天文学会の出版する国際論文誌PASJ(Publication of the Astronomical Society of Japan)が掲載する論文数は, 1972年には本論文が38, 短い論文(ノート)が12であったのに対し, 2002年には本論文が108, 短い論文(レター)が19であった. また海外の有名国際論文誌Astrophysical Journalに日本人研究者の論文が載らない号はない. 1972年のAstrophysical Journal誌(ApJと省略)には582編の論文が掲載された が, 日本人の著者の論文はたったの9編であった. 2002年には, 1707編の論文が 掲載され, 日本人が名前を連ねている論文の数は201であった. 世界の天文学の1割に日本人が貢献しているとの印象を与える. ただし, この数字だけでは実は誤解を招くので説明が必要であろう. ApJ誌に論文を載せるためには査読の結果, 掲載許可を得ても, 掲載料が必要である. 1972年当時, 日本の天文学者の所属する研究所, 大学は貧乏で, この掲載料が払えなかった. したがって, この数字は日本の国力の急激な増大を 物語っている. 全体としての日本の天文学の規模の増大は, PASJ, ApJその他の雑誌に掲載された論文を全部足し合わせて比較して吟味すべきであろう. 詳しい調査は別の機会に譲るとして, おおざっぱに言って, この30年間に, 世界 の天文学の規模の増加速度に比べて, 日本の天文学の増加速度が倍以上速かった であろう.

それにもかかわらず, 筆者は日本の天文学, 科学の将来に危惧の念を抱く. いまは規模の拡大の効果が働いている. いずれ規模拡大はとまる. そのときに 日本の科学の真価が問われるはずだ.

I.1. 言語の問題


おそらく日本在住のほとんどの日本人の研究者は日本語で発想し, 日本語で 考察し, 日本語で考えをまとめているものと思われる. あたりまえのような ことだが, 証拠はあるのかと聞き返されることを考慮して, 2, 3の例を挙げておこう. まず自分の経験から. 研究室を訪問する多くの日本人 研究者と白板の前で議論する. もちろんすべて日本語で行なう. 外国語で行なっ たことはかつてない. 日本語を知らない外国人研究者とは英語で議論する. 次に, 国立天文台の各研究グループの行なう教科書の輪読, 論文紹介, 研究発表, これらはもちろんすべて日本語で行なっている. 天文学会講演は日本語. 外国人 が英語で発表することはある. 日本全国で数知れず行なわれる研究会の講演も外国人が参加しない限り日本語 のみのはずである. 英語講演ばかりにすれば評判になるから筆者の耳に情報が 届くに違いない. 参加する外国人が少ない研究会では, その外国人だけが英語で発表する. 日本語を理解しない限り, 彼らは発表する だけであり, 日本人の講演は聴かない. 参加する外国人研究者の数が増えたり, 参加者が有名研究者であったりする場合, すべての講演発表を英語にすることもある.

「日本語で考えをまとめる」 部分に不賛成の読者もいるかもしれない. 日本人も最後は外国語(主として 英語, 英語以外もあるが少数なので, 以後は外国語と言わずに英語とする)で論 文を書くから, 文章化する際には突然, 机を前にして英語環境に入る. よい英語を書くために, 頭の中を英語に切替える. よい英語が出て来ないときには日本語で悩み, 和英辞書を引き, 類語辞典を引く. 執筆時には頭の中が英語になったり日本語になったり, 困難な時期を過ごす. このようなことはあるにしても, 研究遂行の大部分は日本語で行なう. 結論が出るところまで日本語で行ない, 文章化は英語で行なう. そして本小論が問題にするのは「文章化は英語で行なう」点である. 日本の数理科学の主要な問題点のいくつかはここに集約されているのである.

なぜ英語で書くのか? わが国の数理科学の多くの分野の研究者は 日本語で研究発表をしても国際的に認めてもらえないからである. 国際的な雑誌に論文を載せないと, 国内の評価も低い. したがって国内でよい 職に就くことができない. 国際的な雑誌とは, いまや, 主として論文が英語で 書かれている雑誌であり, 発行者が誰であるかは問わない. もちろん格の高い雑 誌もあれば低い雑誌もある. 投稿しても掲載拒否される割合の高い雑誌は格が高いと 思われている. 日本天文学会の出版する欧文報告誌' Publications of the Astronomical Society of Japan', 日本物理学会の出版す る'Journal of the Physical Society of Japan'や理論物理学刊行会の出版する 'Progress of Theoretical Physics'などは国際的な雑誌である. 英語で論文を書くことは数理科学研究者にとっては必須の条件である. このため日本語で論文を書くことがほとんどない. 書いても, 「どうせ国際的に 通用しないことしか書いてないんだろう」と蔑んだ目で見られることがある. 専門に進んだ学部学生や大学院の院生は英語で論文を読むことが推奨され, 英語の重要性がますます増している. 研究者は下手な英語で論文を書かざるを得ない. これはたいへん不幸な状況である. いくつも弊害がある. 中でも次の3つが決定的である.

1. 科学に関して日本語がどんどん貧弱になる. 新たな概念や考えが現われても, 日本語が追いつかない. 外国語, とくに英語がほぼそのまま入ってくる. これは 中国文明が圧倒的に優勢であった時代に, 日本の文化人が中国語で文章を読み書き したことに比べればそれほど悪くはない. しかし, 仮名を使って日本語で表現し ようという努力は早いうちから行なわれていたはずである[文末註1]. 日本語を豊富にする努力は常に行なわれていなければならないと筆者は考える.

英語の論文を書くと, 査読者がいて論文の内容を英語とともに 吟味してくれる. また英文校閲者がいて, 英語として読みやすいかどうかを吟味 し直してくれる. ところが日本語で論文を書いたり, 紹介記事を書くとき, 日本語を公式にチェックしてくれる人はいない. だから書き方もいい加減になる. 論理に気を配らなくなる. 論理的に飛躍していることを 気づきつつ, わかってくれるだろう, と甘えて書いてしまう. 一見論理的につながるような文章でも読み返してみると何を言っているの かわからない.

2. 高校生, 初年級の大学生など十代後半の若者が挑戦すべきよい科学文献・ 書籍が少ない. 一般解説書ばかりが目につく. それが悪いわけではないが, それだけでは足りない. 第一線の研究者が自分の分野の最新の進展を歴史を交えて書く. 自分が何を 考え, どのように研究を進めたか, が自然に表現されるはずだ. この努力は自分の研究の進展のためにも絶えず必要であって, しかもそれをうまくまとめた文章を発表しておく ことは後進のために是非必要である. 読み手の側からすると, 取捨選択して 読める文献の数が多ければ多いほど自由度が広がる. 筆者は中学2年生のときに恒星社の新天文学講座をわからないなりに読み通した. 内容はまったく覚えていないが, 執筆者の熱意を感じたに違いない. 天文学者を目指すきっかけのひとつになった.

3. 日本人の先達の論文も主として英語で書かれているので, 自分達の先輩 が何をやったのかを知らない. これがきわめて不幸な状況を代表する事態 である. 英語が読めるようになるまでは自分達の先輩が何をやってきたのか 知ることができない. しかも, 自分達の先輩は英語が下手だから, 自分のやったことをうまく英語で表現できないので, 英語で研究論文は書くが, 英語で概観論文はなかなか書かない. いわんや, 専門書や教科書となると英語で 書くことはたいへん困難である. 出版事情により, 専門書は日本語では出版される ことはまれである[文献2]. 研究者になったばかりの若者は, 欧米研究者の書いた概観論文や専門書を読む. そのような論文や専門書には日本人研究者への気くばりはない. しばしば, 日本人研究者の研究結果の代りに, 同国人の似たような後発の研究結果を 紹介する[註3]. 時が経つにつれて, 日本人の若者はますます自分の先輩の仕事を 知ることができなくなる.

次の4番目はまだ考察不足かもしれないが, 以前から言われてきたことに対する 筆者なりの解釈となっている.

4. 近隣分野の研究者の論文に触れないことの弊害が深刻である. おそらく, 日本人の数理科学研究者の多くは, 業績評価が苦手であると思っ ている. 自分の分野に属さない研究者のことなんか判るわけないじゃないか. とはいいながら, 人事評価は下さねばならぬ. 日本語の文献があれば10倍 速く読める. したがって, 近隣分野, やや遠目の分野の論文に目が行き届く. 内容がわかれば判断も下せる. 研究者同士の理解のネットワークが広く 重なり合う. 自分の分野と隣の分野の境界が見える. 研究の芽, 新たな分野の 芽はしばしば境界に潜む. 日本語で読めれば, この芽に気づく頻度も増える はずである. 筆者には日本の科学がひ弱に見える. 根が浅いように見える. たとえば, 今から50年鎖国したら, 科学は日本で生き残るか? 心もとない. また何がしかの理由である特定の分野に人がいなくなったとする. その分野は しばらく埋まらないのではないか. こうなってしまうであろう理由がわから なかった. 直観が間違っているのかとも思えたが, いまは 理解し得たような気がする. 庭に生える雑草がスクラムを組んで根を張るように 隣り合う分野の研究者達が互いの成果を知って強く支え合う. この連携が取れていない. 若い世代とのネットワークも上で述べたように弱い. 何故か. 日本語で自分達や 近隣分野の論文が読めないこと, ここにかなり重大な原因があるように思う.

次の5番目は日本における文科系と理科系の人間の間の溝から来る問題点, 意志疎通のパイプの細さから来る問題点である.

5. 筆者の誤解かもしれないが, 文科系の人々の間では, 英語(外国語)の文献は 頻繁に読むにしても, 英語で日常的に文章を書く必要のある職業は多くない. 筆者のインターネットでの調査 (調査結果はhttp://www.cfca.nao.ac.jp/〜tanikawa/sakuin1.html参照)によれば, 文科系の各種学会, たとえば, 経済学, 教育学, 法学などの学会においては, 学会誌は日本語で投稿しても英語で投稿し てもよく, どちらかといえば, 日本語の論文が多い. 1992年に英文機関誌を発刊した日本社会学会や 1995年に英文機関誌を発刊した日本経済学会はむしろ例外的であるように見える. 日本歴史や考古学はほとんで国内で閉じているのではないだろうか. 日常的に外国語で文章を書いているのは, 外交官, 貿易関係の職業, 世界史, 東洋史の研究者, などそれほど多くないと思われる.

一方, すでに何度も述べたように, 数理科学研究者は英語で論文を書く. 文科系のひとびとは理科系(数理科学研究者)の連中が何をしているのかさっぱり わからない. 文部科学省や経済産業省, 財務省の人々は, 数理科学研究者に いちいち説明してもらはないと, 研究者のやっていることがわからない. 日本語の論文や概観論文や専門書があれば, 各省の係官はそれを自分で読んで あるていど理解できるはずなのに. つまり, 英語で日常的に論文を書く分野の研究 内容は, 研究者が説明しない限り日本のほかの分野の人々に理解されない. これが明治以来続いていると言ったら言いすぎであろうか?

科学は日本に根づいているのであろうか? 4項では科学者間のネットワークの弱 さを問題にしたが, ここでは日本全体の文化のネットワークの弱さを指摘したい. 日本語で真剣な議論の行なわれない(日本語で論文が出版されない)分野は, 日本語で真剣な議論の行なわれる分野との交流ができない. したがって, 日本語 で真剣な議論の行なわれない分野は日本文化の中で空白となる. その分野の専門 家になるために, 日本語から切り離されてしまう. 上で見たように,文科系の 諸分野においても, 英語で論文を書くことを望ましいと思い, それを要求する 学会が増えている. 日本の文化は空白だらけの虫喰い文化になってしまう.

次の6番目は翻訳論文に関する筆者の見解を強く反映しており, これについて は反対の声が挙がっていることを知っている.

6. 10代後半の若者ではなく, 研究を始めたばかりの大学院生の場合を考える. 彼らは論文を読む. 英語の論文を読み, 早く分野に慣れること, 早めに問題意識を 持つことが推奨される. 一般の研究者を考える. 彼らが新たな分野に進出する場 合, やはり, 分野に慣れるためにいくつもの英語の論文を読む. その論文は最先 端のテーマを扱う論文であったり, 基本的事項を解明した過去の重要論文で あったりする. このとき, 読むべき論文が日本語に翻訳されている方がよいか どうか? ある論者は, 「翻訳論文の存在は百害あって一利なし」という. 「小さな親切, 大きなお世話」というわけだ. 「いずれ英語で 論文を読まなければならない. 英語に慣れておく必要がある. 日本語に翻訳され た論文はその邪魔になる」 わたしの考えは逆である. 学問は積み重ねである. 先達が踏み固めた道を乗り越えて進むのが後進である. 翻訳論文があるというこ とは, すでにその論文を英語(あるいは仏語, 露語)で読んだ先達がいることを 示す. 日本語で読めば理解は10倍速い. 先達が達した地点までを, 先達と同じ ようにゆっくり踏破する必要はない. 英語の勉強はその先にいくらでも待っている.

I.2. 出版上の問題


外的状況として, 日本で専門書や教科書を出版することの難しさがある. 市場が狭い. これに尽きる. 英語圏以外の国は同じ困難に直面する. 英語で書けば1万人の読者がいるはずなのに, 日本語で書くと1000人も読者が いない. 出版社はそのような本を出版しない. だから, 日本のたくさんの科学者 が自分の概観論文や専門書や教科書を出版する機会を, いわば, 奪われている. 英語で書けばいいではないか. その通り. 科学者にとってはいいかもしれない. ところがその場合, 日本の読者は無視されてしまう. 英語ではつまらない本が いくらでも出版されるが, 日本では出版に値する本が研究者のパソコンに テキストファイルとして無駄に眠っている. ほとんど出来上がった原稿 を持っている研究者の氏名を挙げることもできる.

啓蒙書の出版に関しても問題がある. 日本では科学者の書いた原論文や概観論文 を読んでそれを解説する「サイエンスライター」が育ちにくい. なぜか? ひとに読ませる文章を書くには文才がひつようである. あるいは文章を書く訓練 を積む必要がある. 一方, 原論文や概観論文を読むには, 科学に通じていて, し かも語学に相当達者でないといけない. つまり, 日本においては, 文才があって, 科学の素養があって, 語学に達者でないと サイエンスライターになれない. 欧米においては, 最後の「語学に達者」である ことの負担が相当小さい. 仏語も独語も英語に近い. 英米においてはこの部分は 負担でもなんでもない. かつての日本のサイエンスライターは日本人科学者の書 いた教科書や啓蒙書を元にして記事を書いた. 最近のサイエンスライターは英語 ができることから出発する. 科学者自身がサイエンスライターの役割を果たすこ とも多い. まとめると, サイエンスライターとして才能を発揮できるはずの人が, 日本語の原論文や概観論文がないために排除されている.

II 解決に向けての方策


社会システムを変えることでこのような不幸な状況を打開することは可能である. 英語を国語にしてしまえ, というような乱暴な意見もあるようだ. これは システム変更の最たるものである. 英語を第二国語, あるいは公用語にしようと の意見もあるやに聞いている. 子どものうちから英語が読み書きできるように しようというわけである. わたしはこのような意見には組しない. 社会システムを上記問題のだけのために変える, つまり, 中学生でもかなり自由に 英語の文献, たとえばSky and Telescopeを読めるようにすることには大きな 危険が伴う. 他の教科を削って英語に多くの時間を割かなければこれは実現でき ないのではないか. 不幸な状況がシステムの変更によってもっと不幸な状況に 取って代られる可能性がある. 「互いが相手国の言葉を使いたくないという事情がある限り, 国際共通語は 必要である. 英語が国際共通語になったという状況は後戻りしない」と若手米国 人天文学者が力強く筆者に語る.「相手国の言葉」の中に英語も入ることを この若手研究者は勘定に入れていない. 「後戻りしない」かどうか, 現代人には 判断できないと筆者は考える. ともあれ, 各国が国内で自国の言葉を使用することと, 国際共通語を使用するこ とはなんら関係がない. 世界には自分の子ども達も含めて日本語を習う人々が多数いる. その人々の ためにも良い日本語の文章や文献を多く出版する必要がある.

システムの変更を最小限に止め, 個人的な努力を積み重ね, 小さな組織から 大きな組織へとボランティア活動を広め, いずれ社会的な賛同を得るような (国が支援する)形で, I節の問題点を解消する方向への提案を述べる. システムを変更することなくこのような活動が社会的認知を得るためには, 時間はかかるけれども, 下からの積み上げ方式に訴えるのが最善で あろうと考える. 一旦支持を得れば, 長続きもする. 以下では, 現在継続中の個人的努力から始めて次第に規模の大きくなる活動を 順を追って説明する.

その1. 個人的努力とその線形重ね合わせ. 個々人は自分の論文を最優先 で日本語に翻訳しておく. この場合誤訳はないから論文の主張はただしく 日本の読者に伝わる. また重要論文を和訳する. 日本人の論文であろうと, 外国人の論文であろうと, 重要であると思われる論文を, 若い人達の目に触れる形にしておく. 誤訳があり得るから, 訳文そのものも修正 可能な形で公開する. 概観論文を和訳するか, 日本語で書き, ホームページに掲載する. 雑誌から翻訳権を取得したりする手続きが必要である. 谷川のホームページ

http://www.cfca.nao.ac.jp/~tanikawa/

の「書架」はその例である. 50編ほどの重要論文が和訳されている. 一人でも時間をかければ相当な貢献ができることを示している. 一人年間, 5編和訳すれば組織全体では相当な量になる. ゼミで詳しく説明する 論文は, むしろ訳してしまえばよいではないか.

個人的努力の線形重ね合わせとして, 所属する大学または研究所(筆者の場合は 国立天文台)にホームページを持つ. 「電網図書館」'On-line library'. これが名称例である. これはただちに立ち上げ可能である. この努力は積み重ねがきくので文献はどんどん増える. 新しく分野に参入する 研究者は, 最新の文献を英語で読む. 問題意識は和訳された日本語文献を読んで培う. 概観論文についても同様である. 例は谷川のホームページの「閲覧室」にいくつか 置いてある. 専門書, 教科書の執筆は, 筆者の今後の目標でもある.

その2. 研究所の努力. 研究者が日本語で書いた概観論文, 専門書や 教科書を無料で公開する. いくつかの個人ホームページではすでに行なわれて いる. 英語の場合でも, 講義録の形でホームページに置き, 教科書として 体裁が整った段階で出版される, という例がある. 著作権と版権は保持しておく. それが出版して売れるものなら出版社に 持ち込んでよい. また, すでに述べたように, 日本で読者が1000人であっても 英語で書けば読者が1万人いる. 教科書を英語に訳し, 英語で出版すればいい. 現在, 国立天文台は台外の研究者の共同開発事業に 3千万円を計上しているが, 出版事業にたとえば500万円を出せば, 相当の成果が期待できる. これはただちに実行に移せる. 出版を研究補助と考えれば, 売る必要はない. I.3節で述べた日本の出版状況を考慮すると, 研究書, 専門書, 教科書に関してわれわれは, ビジネスと一線を画す, という 観点を持つ必要がある. ビジネスとつながっている部分を切り離す必要もない. 国立天文台が自前の出版部門を持つことは可能であろう. 小さな研究所なら, 近隣の研究所と連携を取って出版部門を立ち上げてもいいじゃないか.

その3. 分野の努力. 天文学会が概観論文, 専門書, 教科書の出版を補助する. 現在, 後藤書房がボランティアのように天文学の専門書を出版してくれている. 後藤書房が執筆者として選んだ天文学者は片手に満たない. これでは天文学界 全体への影響は大きいとは言えない. 筆者が考えている出版はもっと頻度 の高いものである. この構想はいまのところ絵に描いた餅である. 儲けを考えないことが本質的であるので, 天文学会に力量があるかどうかは わたしには未知である. しかし近い将来, 天文学会に働きかけるつもりはある.

その4. 国の努力. 科学技術振興事業団には1976年以来文献サービス(JOIS) があって, 海外の文献の要約, 抄訳を読むことができる. これはプロ向けで あって, いま考えている10代向けの情報ではない. オンライン検索は全国に 端末が1万台しかなくて, 利用時間も12万時間, つまり年間1台あたり12時間 しかない. あまり利用頻度が高いとは言えない. ただ, 契約すれば自分のパソコ ンからデータベースを利用できるので, 専用端末の利用頻度が少ないからといっ て必ずしも問題にはならない. しかし, そもそも, このサービスの存在を知らない 研究者が多いのではないか. すべてが解決するわけではないが, JOISを 無料にする. これは解決へ向けての第一歩である. このインターネット時代, 多くの人が自分のホームページから情報を発信する. 重要な情報を無料で 提供している. いわゆるボランティアである. 一方, 国は金をかけて英語や その他の言語による文献を抄訳・翻訳している. だから国民に見せるときにも金を 取るべきである, との方針であろう. 組織の独立採算性. 聞こえはいいが, 日本の言語状況を視野に入れると, 考え方として貧困である. 国民から何倍にもなって還ってくるかもしれないではないか.

出版事業に関しては, わたしはまだ国に提案するべき案を持っていない. 研究所でのコンセンサスも得ていない状況では, 時期尚早であろう.

III. ネット図書館(あるいは電網図書館)


電網図書館の運営はどのようなものか. ただいまは, 個人のホームページに 一人で翻訳した論文が50編掲載され, 日本語の読み物, 講義ノート, 日本語 論文, そのほか少数の項目のデータが蓄積されている. ごく近い将来に, 別の個人が翻訳した論文が, 掲載される予定である. さらに1,2年後には, 国立天文台のホームページにそれを移動し, 国立天文台内から翻訳論文を 募集するつもりである. ここまでなら個人の努力でできる.

全国規模でに電網図書館を機能させるためにはどうすべきかを考える. 毎日全国の数理科学研究者から, 翻訳論文が届く. 日本語の概観論文が届く. あるいは他の情報が届く. 翻訳論文にまとを絞って考える.

● 翻訳論文は個人が持つべきか. 否. 電網図書館は個人の寿命を 越えて生きる. だから個人は電網図書館に翻訳論文を送る. ただし, 翻訳権の取得は個人が行なう.

● 電網図書館には司書が必要である. 送られた翻訳論文を分類する 仕事がある. 分野, 雑誌名, 発行年, 著者, タイトル. 目録を作る.

● 電網図書館には巨大な記憶装置が必要である. 送られた翻訳論文を 格納する.

● 電網図書館には計算機が必要である. ホームページが必要である. 利用者はホームページに入り, 必要な情報を取る.

● 電網図書館は唯一か複数か? 複数でよい. 電網図書館同士が電網で つながればよい. 重複を避けるために, 目録は共通にすべきである. 拠点大学, 研究所の既存図書館内に建設する. 司書が一人ふえる.

● 個人は必ず自分の論文を翻訳して電網図書館に送る. あとは任意に翻訳する.

IV. 期待される成果


いまの日本の科学研究者は実は日本語も英語も中途半端にしか訓練されていない. 国語の勉強は高校時代でおわりと思っているふしがある. 自分にとって大切なことを英語で書いている. 日本語を書く機会が少ない. 英語が国語ではないのだから大切のことは日本語で書かなくてはいけない. 日本語でまとめを書くこと, いつもまとめながら進むこと, これにより, 日本語が豊富になる. この作業は英語の概観論文, 専門書, 教科書を書く 手助けにもなる. そして, 自分達の手で学問の歴史, 天文学の歴史を書く という当り前のことをする. 自分の先輩が何をやったのかを自分達で 書くことができる. 日本語で書くことを低く評価しないこと, 日本語で書くときに いい加減にならないこと, 日本語を大切に思うこと, などが結果として もたらされると期待する.

バイリンガルという言葉を耳にする. 2つの言葉を自由自在に扱うという意味で あると筆者は解釈する. もっと気軽に使われることがある. 「あなたはバイリンガルですね」 要するに「英語がうまいですね」 あるいは 「ロシア語がペラペラですね」と言っているに過ぎないことが多い. 大学生のころまでは, 子どものころに習ったそろばんのおかげで, 3桁や4桁の暗算は軽々であったのに, いまでは頭の中に浮かぶそろばんが 錆びついて, 想像上の指で珠を弾こうとしてもうまくいかない. 筆者の経験からすれば, 言語も使わなければどんどん錆びつく. 使う必要のない言語は覚えてもすぐ忘れる. 筆者の場合, 研究者として 日常的に英語を話す機会が多く, 英語で論文を書くにしても, 英語は あくまでも外国語であって, 自分の言いたいことを過不足なく表現できる 言語であるとは思っていない.

外国語で書かれた論文を日本語にする努力は, 日本語を大切に思う気持がなけれ ば, そして自分の日本語を豊かにしたいとの気持がなければ長続きしない. 無償の行為だからである. 筆者の場合は, 動機はもうひとつある. 外国語で書かれた論文をしっかり読もうとするとき, 良い論文になればなる程, 自分だけが理解して終るのはもったいない気がする. たいへんな苦労をして 理解するのなら, いっそのこと翻訳してしまえば, あとの人が助かるじゃないか. すでに述べたように日本語で読むと理解は10倍速い. ひとりが2倍かけて, 翻訳し理解して, あとの多くの人がその恩恵に与る. 地球上で人間にだけ許された文化の継承法である.

II節で述べた問題点を整理すると, 日本においては,

1) 世代間のつながりが弱い.
外国語で研究成果が発表されるので, 若い世代の日本人にその成果が伝わらない. 発表した研究者が誰であるかもわからない.

2) 研究者間のつながりが弱い.
外国語で論文を読むスピードが遅いため, 読める論文の数が限られる. そのため, 近隣分野の論文を読んで, そこでの成果や課題を把握することができない.

3) 専門家と一般人のつながりが弱い.
外国語で書かれた日本人の成果は若い世代だけでなく, 一般の日本人にも 届かない. だから, 一般の日本人は研究者が何をやっているのか知らない.

4) 数理科学とほかの分野とのつながりが弱い.
日本語でほとんど片がつく分野の専門家は数理科学を理解できない. 情報が一方向にしか流れない.

外国語の重要論文の多くが和訳され, 日本人現役研究者が日本語で書いた 概観論文, 専門書, 教科書が多数, ネット図書館に蓄積されたとする. そして, これらの文献が容易に検索できて一般の目に触れる状況になれば, 時間の経過とともに, 文献に親しむ人の数が増え, いずれは上に列挙した つながりの弱さが解消される, と筆者は信じている.

10代後半, もしかすると10代前半の若者がこれらを目にし, これらを手に取る であろう. その機会が増える. 科学者になる準備が早めに整うことになる. 日本には科学の分野で早熟の天才が少ないと言われる. それは画一的な教育の せいであるとか, もともと日本人はそういう性格なのだという議論がある. 欧米の天才科学者, 数学者とよばれる人の伝記を読むと, しばしば, 10代に専門書に出会って衝撃を受けたことが書かれている. 日本の若者には この経験が欠けている可能性があった. いま, 日本語で書かれた専門書, 問題点 を述べた最新の概観論文などを若者が好きなだけ読めるとしたら, 良い結果が 出ないわけがない. 早熟の天才も出るかもしれない. 何よりもまず, 日本人 研究者の研究寿命が短いこと[註4]を補うことになる. 早めに科学に目覚めることになるからである.

謝辞. 東京大学理学部教育研究センターの半田利弘氏には原稿を読んでいただき, 多くの助言をいただいた. ここに深い謝意の念を表明する. 国立天文台の伊藤孝士氏に原稿を読んでいただいた.

あとがき


奇妙な経験をしたので, 「あとがき」として書き加えておく.

年に数度, 衝動的に物置に入り込む. 本立に雑然と並べた書籍群を調べて 必要になりそうな本を取り出して来る. この文章の草稿を書き上げて数日してからその衝動が起きた. 取り出した数冊を 研究室に持ち込んだ. その中に「数学の学び方」(小平邦彦編, 岩波書店, 1987)があった. わたしは数学書を読むのが趣味で, 数学の啓蒙書も読む. 研究室に持ち込んでさらに数日後, こんな本を買って読んだのだな, と思いながらパラパラとページをめくる. 小松彦三郎さんが何か書いているな. 「暗記のすすめ」か. 2ページ目に来てぎょっとする.

「..., 日本人にはもう一つ不利な点がある. それは, 最先端の数学を学ぶにも, 研究成果を発表するにも, 今のところ英語なり仏語なり外国語をたよらざるを得 ないことである. きわめて年少の天才は, 自国語ですべての用がすませられる ような文化の中心地またはその周辺にしか現われないが, 考えてみれば当然であ る. アメリカ, ソ連では, 数学雑誌を含めて外国語で書かれた主要な文献を すべて自国語に翻訳して出版する努力をしているが, 残念ながら, 日本政府には, そして多分日本の数学者にも, それだけの労力を払って, 世界の中心になろうと する意欲はない.」 わたしが考えたこととほぼ同じ内容が書かれている. まったく覚えていないが, この本を買った当時これを読んだはずだ.

本小論を書き上げた直後に小松彦三郎さんの記事の載っている「数学の学び方」 を物置から取り出したのは単なる偶然か? 偶然でないとしたら, 怪談じみている. わたしの意識は読んだことを忘れていたが, わたしの無意識は覚えており, その無意識がわたしの肉体をあやつって物置に誘導し, 「数学の学び方」を 手に取らせた. 天文台の研究室で小松彦三郎さんの記事を開くまで誘導し, 無意識は役割を終えて心の奥深くへ去っていった. こんな解釈はあり得るだろう か?


1) 万葉集では万葉仮名が使われと漢字の訓読みが行なわれている. またよく知られているように, 日本書紀(たとえば推古紀)では, 倭習といって, 日本的な漢文表現が現われている(森博達「日本書紀の謎を解く」(中公新書), 河鰭, 谷川, 相馬著「日本書紀の天文記録の信頼性」 (国立天文台報, 2002年3月)).

2) 特定の分野の最近の進展を概観するのが概観(review)論文, 特定の分野の進展を自分の業績を前面に出しつつ教育的に配列・記述した本を 専門書(monograph), ある広い分野の過去から現在までを, (対象に応じて)基礎 的事項から教育的に配列・記述した本を教科書(textbook)と, この小論では 考えている. 自分の周辺を見ていただきたい. 友人や先輩・後輩に日本語で専門書を書いたひとは いるか, 外国語の専門書, またはその翻訳書の量に比べてどうか?

3) 多くの研究者が例を挙げることができると思われるが, 比較的容易に手に入 る文献から例を取ろう. 第一の例は「位相力学」(齋藤利弥, 共立出版, 1971)の 参考書および論文(p.212 -- 214). 「ただ, いささか気になるのは彼(谷川註: ネミツキー)のお国自慢で, これを読んでいると位相力学という学問は, バーコフ以後は, すべてソビエトの数学者によってつくられたかのような 印象を受ける. わたしはこういう田舎臭さを好まない.」 齋藤利弥氏の取り澄ま した態度が印象に残った. 公平な引用に関して合意がまったくないことがわかっ た. 筆者はその後、客員として招いたロシア人天文学者に尋ねた. 「日本人の結果が良くてもロシア人なのだからロシア人の結果を引用する」と 明言した. ただし, その後, 日本人の論文も引用するように態度を変えたようで ある. 第三の例は, Boccaletti \& Pucaccoの 'Theory of Orbits 2'(Springer, 1999). 天体力学の堀理論(1966) をけなして, 後発のDeprit(1969)理論に章を割いている. 両理論が同等であるこ とはDeprit論文出版後すぐに数学的に証明されている. また堀理論は広く使われている. 二番煎じのDeprit理論は軽く見られるはずなのに, と筆者はひがむ.

4) 日本においては, 研究者として経歴を始めた者は, 人生の階悌を 上昇するにつれて, 管理的な仕事を行なわざるを得なくなる. しかも早めに 才能を示したものは早めに階悌を登って行くので, 早めに研究者としては居残れ なくなるような事態が発生する. たとえば, 40歳を過ぎると研究できなくなる. 研究者としては15年しか存在できない. 論文の書き手が突然管理職になってしまう. しばらくは第二, 第三, 第四, ..., 第$n$著者として残照のように存在する こともあるが, 欧米の同年代の研究者が現役でいるときに, 次第に消えてしまう. 組織が大きくなればなるほどこの傾向が強いように思える. 研究者が現役を保ち, 次第に熟練するとどうなるか. 自分の属する分野の状況がよく理解できる. 次にどの方面を攻撃すればよい鉱脈が眠っているのか勘が働く. 若者が力に任せて, とんでもない不毛の土地を掘り返す のを見るに見兼ねて忠告を与える. ときに, 大金脈が不毛の土地に眠っているこ とを見誤って, 若者に誤った忠告を与えることもあるが, 多くの場合, 年長者の見解は正しい. 「年長の」筆者はそう信じている. 年長者は個人に直接忠告を与えるばかりでなく, それを文章の形で発表する. 自分の成果をまとめて専門書を書く. さらに歴史をまとめて教科書にする. つまり, 英語圏で, しかも, 研究者の寿命を長く保てる国においては, 年長者が概観論文を書き, 専門書や教科書を書くことによって, 自分達の後輩に進むべき道を指し示す. 自分のやりたい ことをやってくれる後輩がいなければ, 自分で仕事をやってしまう.


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