英語への距離

天文月報, 103巻, 271 - 279, 2010

    谷川清隆

本小論では2つの問題を考察する.

(1) 国の規模と英語を必要とする人口の関係
(2) 日本の各種学会における「英語」の取扱い

平均的な国民にとっての外国語の必要性の度合は実は国の規模に応じて異なる はずである. そのことが考慮されずに議論が行われているように思われるので, やや定量的な議論を行ってみたい. これが問題(1)の内容である. そこでの分析 結果を使って, 日本における英語の早期教育に関して意見を述べる. 次に, 日本の研究者は日本語でしか成果を発表しないとか, 逆に日本の研究者は英語で しか成果を発表しないとか, 両極端の意見が述べられているように思われる. 本小論では各種学会の状況を調べ, 英語の必要性が分野によって大きく異なる という調査結果を発表する. これが(2)の内容である.

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I. 問題提起


筆者は天文学者である. 天文学者が何で英語の話などするのかと 疑問に思われる方がおられると思うので, 釈明から話したい. 筆者は「天文月報」の2003年8月号に, 「日本語と日本の科学」(文献1)という 論説を書いた. 日本の数理科学が日本語から切り離されていることを論じた. 切り離された結果, 理科系とくに数理科学の研究者は日本の文化に 直接的には貢献しない. このことに対して危惧の念を持つことを述べた. その後も機会をとらえて発言している[文献2--7].

もう少し具体的に言うと, 天文学者 (物理学者, 地球物理学者も)は ひっきりなしに, 文章を書いている. 論文をかいている. 若手の場合, 書く頻度は少ないかもしれない. また高年齢になると生産性が低くなって, やはり書く量は少なくなるかもしれない. だが人生の活動的な時代には, 毎日のように文章を書いている. この文章がほとんど英語である. 世界に自分の成果を知らせるために論文を書く. それを英語で書く. 日本の読者のためには書いていない. だから, 天文学者は日本の 文化から切り離されていると感じる. 日本文化へ貢献するには 日本語で発言し, 日本語での議論に参加する必要があろう. それが欠けている.

「英語への距離」という観点からすると, 天文学者は英語に近過ぎる. どうにかして, 日本語での発言の場を確保しなければ, 日本の文化は 穴の空いた虫食文化になってしまうとの危惧を表明し, 天文学者への提案として, 自分の英語論文を日本語に訳しておくこと, 重要な参考文献を日本語に訳しておくこと, そしてそれを多くの 人々の目に触れるところに置くことなどを提案した. いまのところ 効果を上げているようには思えない. むしろ, 逆に, 英語に向かって進む 動きは加速している. 大学または大学院の講義の一部を英語で行う, 学会の発表言語を英語にするなどの動きが具体的に見られる. 老舗(しにせ) といっていいような確立した学会でそのようなことが起こりかけている. 新興の学問分野では, 当然のように英語ばかりの分科会を持っている. 日本語でしか発表できない研究者は遅れた研究者だ, というわけである (文献2--6参照).

一方で, 文科系の分野では英語の浸透の具合はどうか, ということに興味を 持ち, インターネットで学会および学会誌の状況を簡単に調べた. それによると, 学会発表はもちろん日本語, 学会誌は日本語という学会が 多い. これについては, ひとの学会ながら, 2つの相矛盾する感想を持った. ひとつは, 日本語で発表できるのは幸せなことであり, 羨ましいことである という感想. もうひとつは, 世界の人々に自分の考えを伝えることが, このままではできないので, 学問として鍛えられているのだろうか? というものである. ただ, 大学図書館の雑誌区画に行ってみればわかる通り, 外国語で議論する必要のない分野がきわめてたくさんあることも確かである.

文科系の学問分野でも, 英語の学会誌を持つ分野が増えつつあるという 状況を読み取った. だから分野によっては天文学と似たような状況に なりつつあるのだと思われる.

問題(1)に戻る. 2011年度から小学校の高学年で英語の授業が始まる. 開始の理由が, 英語が国民全体に必要であるから, と言うものである. この認識が正しいかどうかについて, やや詳しく議論したい.

「国の規模」と「英語への距離」

II - 1. 分類


英語を母国語としない国々において, 英語を必要とする度合や英語を必要とする 理由は同じでない. 実際, 国内に異なる言語を使う複数の民族が共存する 国がある. そのような国の中に, 民族間の意思疎通をはかるための言語として, 歴史的経緯もあって, 英語を使用する国がある. その場合, 英語の必要度は高い. また, 小さな国では, 国際間を飛び交う英語による情報を自国語に翻訳する 余力がなく, 英語のままで情報を使用する。そこで多くの国民が 英語を必要とする. この場合も英語の必要度は高い. 一方, 大きな国の場合, 国際情報を発信したり受信したりする人材を確保することができる. これらの 人々は, いわば防波堤であって, 残りの国民は安心して自国語で生活できる. このような国では英語の必要度は低い. 日本はこのような国に属すると筆者は 考える.

以上のような簡単な考察から, 英語の必要度も英語を必要とする理由も国ごとに 異なることが納得できる。 後の節で議論の対象とする国を選び出すために, 世界の国々をはじめに分類しておく. 分類には3つの独立な要因があると思われる. 以下のとおりである.


1) 国の規模 (人口の大小)

2) 多言語国家か否か.

3) 長期間にわたって外国の植民地であったか否か.


要因1), 2), 3) を組み合わせて世界の言語状況がうまく分類できるように思われる. まず人口. 人口が1千万以下の国は小さい国か? にわかには判断できない。以下の分析で, ある程度の基準ができるかもしれない. 多言語国家の場合, 大きく2つに分かれる. ひとつは優勢な言語のある国. もう ひとつは優勢な言語のない国.

(1) 植民地であった. 英語 (または仏語)で教育が行われていた. 自国語に 科学への備えがない. 自国語に科学的な語彙がない.


(2) 多言語国家であって, 植民地であったことも原因で, 国内に優勢な 言語を持たない. 共通語として英語を使わざるを得ない.
高等教育は英語. したがって科学も英語. インド, ナイジェリアなど


(3) 人口が少なすぎて, 英語による科学情報に自国語が対応できない (言語が単一かどうかは, 人口規模が大きくなると次第に問題となる). 人口の少ないヨーロッパの小国. 例. エストニア, ラトビア. 科学は英語で考える.


(4) 多言語国家であって, 優勢な言語を持つ国. その優勢言語で科学する国: 中国, ロシア.


(5) 単一言語を使い, 国の規模は大きい. 日本, ドイツ, フランス, イタリア, 韓国. このような国の人々の英語は平均として
下手である. (ドイツのようにもともと 言語が英語に近い場合は学習は簡単.)



イスラム圏の国々, 中南米のスペイン語圏の国々にもあてはまるような議論で あって欲しいが, 筆者は情報を持っていない. 以下の議論は, 3, 4, 5番目のカテゴリーの国にのみあてはまる. とくに3)の国 はモデルのパラメータを決めるのに重要な役割を果たす. 1) - 2)に 属する国は, はじめから英語への距離はゼロと考えてよい. おそらく, 日本は言語状況からみてたいへん特殊な国である. 単一言語を使う, とびぬけて 大きな規模の国である. 国の規模の重要性を以下で見よう.

II - 2. 国の規模: モデル計算

国と国の間を情報が飛び交っている. それぞれの国は情報を発信し, 受信して いる. 情報のどれだけを取り込むか, どれほど発信するかが国の発展にとって 最近はことに重要である. 国内にあって情報を発信する人および受信する人を 合わせて対外折衝をする人と呼ぶことにする. 対外折衝しない人は, 外国語を使うにしても, 自分のためにだけ使う. だから, 外国語消費者と 呼ぶべきかもしれない.

そこで問題. ある国に, 対外折衝人口はどれほど必要か? 1億人の国を分割し, 人口1千万人の国を10個作ったとする. 1億人の国は100万人の対外折衝人口が必要であるとする. 人口1千万の国は 10万人の対外折衝人口で足りるか? つまり, 対外折衝人口は, 全人口の比と 同じ10対1になるか?

取り込む意欲は国の姿勢に依存し, 対外折衝人口を 増やす増やさないの政策となって表れる. たとえば, 日本では, 大量に 欧米の書物を翻訳し, それを一般人が気軽に読めるようなシステムが できあがっている. これは国の政策でもあったかもしれないが, 人口が多くて それができる国であったからかもしれない. どれほど取り込めるかは, 人口1億人の国と1千万の国では違うだろう. だが, 単純に考えて, 対外折衝人口は国の人口に比例しては減らない. ある最小限度の数がある. 外国語を必要とする研究者, 翻訳者, 外交官, 語学教師, 等などは 減り過ぎると, 人口の多い国に比べて不十分にしか必要な作業ができなくなる. しかし, 人口が日本の半分の国が日本と同様なことができているとは思えない. なぜかというと, ある国に属する人間にはそれぞれ役割があって, 対外折衝ばかりに人材を配分するわけにはいかないからだ. 外国語に 関係しないたくさんの仕事がある.

問題を小さく限定することにしよう. 次のように問題設定する. 「自国語で科学を行なうためには人口は何人以上である必要があるか?」 「そしてその臨界人口が決まったとき, それより大きな人口を持つ国には外国語 に関係なく暮らす人口はどれほどいるか?」 抽象的な議論だけでは話は進まない. いくつかのデータはある. 筆者の 個人的に知っている, 人口5百万人のフィンランドの同業者は英語で 「科学する」. 人口3百万人のリトアニアは文化防衛のために, 百科辞典を 自国語で編纂する努力はしている. だが研究者は英語で科学する. そこで, 人口がある数以下になると自国語で科学ができなくなる, と考えてよさそうである. 科学者を対外折衝する人の代表と考えよう. 科学者は国の表面にいて, 国と国の間を飛び交う 情報を取り込んだり, そこから情報を発信したりしていると考えられる. 対外折衝に参加しない人は国の内部にいる. この幾何学的描像をモデルに 取り込もう.

モデルを何次元にするべきかは, あらかじめわからない. とりあえず2次元 のモデルを考えよう. 国を円盤とする (3次元なら球体). 円盤の表面は円周である. 対外折衝する人は円周および円周近くにいる人とする. 対外折衝しない人は, 円盤の中心近くにいる人とする. 表面からある深さまでの人は対外折衝する. 人口の大小は円盤の大小に翻訳できる. 対外折衝する人口はどうするか. 一番簡単に考えて, どの国でも表面から同じ深さまでに属する人は 対外折衝に参加するとする. ここにはもっと複雑なモデルが考えられる だろうが, 基本的には, 同じとして出発したモデルの変種として扱える.


このモデル化を認めるならば, 議論はきわめて簡単になる. 人口を面積 に換算し, 円盤の半径 R を求める. 人口を N とすると

N = π ×R^2 (1)

円盤の表面から深さ dまでが表面であるとする. ここに属する人間は対外折衝に 参加する. 表面に属さない人の数を N(内部) とすると,

N(内部) = π (R-d)^2 (2)

逆に, 表面に属する人の数をN(表面)とすると

N(表面) = N - N(内部) (3)

まず明らかなことは, R=dなら, 円盤全体が表面になってしまうことである. つまり半径がdの円盤に対応する国は国民全体が対外折衝に参加する. そこで, 人口3百万人の国の人々はすべて対外折衝に参加する (科学者は英語で 考える) としよう. すると, (2)式より, R=d. (1)式で N=3百万 を入れて d=R を求めると,

d = R = ( 1/π × 3 × 1000000 )^{1/2} = 0.98 ×1000

人口1億2千万の日本では, 対外折衝に参加しない人口はどれほどか? 日本の場合の半径を R(日本)とすると, R(日本) = 6.2 ×1000. これから, 日本の N(内部) = 8.2 ×10000000, つまり, 内部の人口は8千2百万人. 約4千万人が表面にいるという結果だ. 日本人の3人にひとりがなんらかの形で 対外折衝に関係している. これでも多すぎる気がするがどうだろう.

3次元や1次元モデルも考えられるが, 2次元円盤モデルがよさそうである. 直感的には, 世界地図を思い浮かべ, それぞれの国の地図の上に, 人口に応じた円を描き, 表面から同じ深さまで色を変えておく. この部分に人を立てれば対外折衝を担う人々が思い浮かぶ. いまのところ, お遊びの計算であるが, 日本国内で, 内部の人口, 境界の人口の 調査を行なえば, モデルの善し悪しがわかるだろう. もうひとつ, 全国民が対外 折衝に関係するとはどういう状況か? その国を訪れると, どこに行っても, 英語 で用が足りるような国. はたしてリトアニアはそのような国か? そうでないと すれば, 臨界人口をもっと少なくする必要があろう.

表 I. 人口の少ない国の例.



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国名 人口 備考
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Finland 5,300,484 (end-2007)
Lithuania 3,444,000 (2003, 見積り)
Estonia 1,323,000 (2003, 見積り)
Latvia 2,392,000 (2002, 見積り)
Norway 4,681,100 (January 1, 2007)
Singapore 4.480,000 (2005, 見積り)
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II - 3. 英語の早期教育に関する意見


前副節では, 大きな国の場合に, 国の内部に対外折衝と無関係に暮らす 多くの人々が存在することを定量的に示すひとつの手法を提案した. 本小論では, 必ずしも成功はしなかったが, 2次元モデルの方が直観に 合うという感触を得た. 直観によれば, 日本人の過半数は日常, まったく 英語に触れずに生活している. 会話となれば, 行なう頻度はさらに低い.

文部省は, 「国民全体に求められる英語力」として, 中学卒業時に 平均して英検3級程度, 高校卒業時に英検準2級〜2級程度の 「コミュニケーション」ができることをすべての生徒に要請する. 「英語が使える日本人」を育成しようとしている. 会話重視である. それに連動して, 2011年から小学校の高学年での英語教育を開始する ことが決まっている.この節では, このことの是非についてごく簡単に議論する.

学校でどんな科目を早期に教えるべきかに関しては, 単純な原理がある. 「より多くの国民が関係する科目ほど早期の教育が必要である」 これを 「教育順序原理」と呼ぼう. この原理が採用されているかどうか吟味してみる. 教育基本法には「教育の目的」「教育の目標」「教育の機会均等」「義務教育」 などの項目はあるが, どの科目から教えるかは述べていない. それは細目にわたるからであろう.

そこで下位の法律を見てみる. 学校教育法(平成20年4月1日より新法) の条項のうち, 「小学校に関する事項」を見ると, 「1 小学校は、心身の発達に応じて、義務教育として行われる普通教育のうち 基礎的なもの施すことを目的とする。」とある. 義務教育の目標のところに義務教育が何を目標とするかが書いてある. ただし, 中学校も入るので, やや注意が必要である. 「学内外における社会活動、自然体験活動」が1、2番目で, 3番目が「郷土愛」、 4番目が「家庭と衣食住」、5、6番目が「読み書きそろばん」で、7番目が 「理科」、8番目が「運動」, 9番目が「音楽、美術、文芸」, 最後が 「職業」. 「郷土愛」の中に「外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、 国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」がある. 旧条文では, ここは「国際協調の精神を養うこと」とあった. より具体的になった. さらに下位の法律「新学習指導要領」(平成21年4月から一部先行実施)には 「基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ」とある.

以上からすると, 「基礎的・基本的な」ことがらは議論の余地なく決まって いるのではなく, 時代の要請に応じて変化するもののようだ. それは, 英語を小学校から習わせることを新たに始めたことでわかる. 新学習指導要領が「外国語活動」を唱っている. そして 「外国語活動においては,英語を取り扱うことを原則とすること。」 として英語をやりなさいとある. 「国民全体」が初等英語を獲得すべしとしたことと, 小学校から英語を教える ことは, 「教育順序原理」から見てつじつまが合っている. たしかに, 読み書きそろばんは国民すべて に最優先で必要なので, 小学校低学年から始める.

ところが, 気になるのは, 果して, 英語は「国民全体に必要な基礎知識」 であるかどうかである. この判断は平成15年にはなされている. 文部科学大臣 は「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」という報告書の中で 「『英語が使える日本人』の育成は、子どもたちの将来のためにも、 我が国の一層の発展のためにも非常に重要な課題です」と述べる. 行動計画の 目標として

国民全体に求められる英語力
● 中学校・高等学校を卒業したら英語でコミュニケーションができる

● 中卒で英検3級, 高卒で英検準2級〜2級


専門分野に必要な英語力や国際社会に活躍する人材等に求められる英語力
● 大学を卒業したら仕事で英語が使える.

を掲げ, その説明として, 国民全体のレベルで, 英語により日常的な会話や簡単な情報交換が できるような基礎的・実戦的なコミュニケーション能力を身に付けるようにする. 職業や研究などの仕事上英語を必要とする者には, (中略), それぞれの分野に応じて 必要な英語力を身に付けるようにし 日本人全体として、英検, TOEFL, TOEIC等客観的指標に基づいて世界平均水準の 英語力を目指すことが重要である, とする.

国が決めたことであるから多くの識者の意見が一致して方向を決めたのであろ うが, 2つの重大な判断間違いを犯しているように思われてならない.

まずひとつめ. 外国語習得が容易であるかのごとき判断に基づいている. 中学校・高等学校を卒業したら英語でコミュニケーションができ, 大学を卒業したら仕事で英語が使えるとは! 外国語習得を何と軽く考えている 人達が決めたのだろう.

ふたつめ. 国民全体が国の表面に出てこい, ということのようだ. 小さな国なら いざ知らず, 日本のような巨大な国には必ず, 外国語に関係なく人生を過ごす人々 がいつになってもたくさんいるはずである. あとで, その証拠をいくつか示そう.

と思って英語の早期教育を議論する委員(文献7)の専門分野を見てみると, 圧倒的に文科系出身の委員が多い. また, 教育関係者がかなりの割合を占める. III節で見るように, 教育学関係者は英語の論文を読むにしても, 英語で論文を 書かないし, 日常英語に接しているとは思えない. 学会調べによれば, 日本教育学会が英文機関誌を出版し始めたのは, ようやく 2006年のことである. 英語をあまり使わない人々が, 英語の必要性を説いているように見える.

日本人の多くが英語を必要としていないことを示すいくつかの事象を挙げる ことができる. ひとつは, 日本中で英会話学校が大流行して いることである. 英会話を習うことは, ピアノやバイオリン, その他のお稽古ごと と同じである. いまや英会話はお稽古ごとなのである. 「うまくなったらいいな」 あるいは「英語できたら格好いい」程度のことなのである. 英語は「特殊技能」 (余暇技能?)のひとつである. そろばん, 楽器, その他. 小さいころから習うほどうまくなる. だからといって, どの技能も「特殊技能」である限り, 国民全員には関係しない. ふたつめ, 英語ができることを採用条件とする日本企業はあるか? ほとんどない. だから大学生は英語に熱心でない. ある大企業の幹部社員が言う. 「英語教育は 社内でします」 つまり, 自社の社員の全員に英語教育を行うのでなく, 英語を 必要とする部署の人間に特別に英語の訓練をほどこすのである. 普通のサラリー マンは英語を話す機会もない. 日本社会が英語を必要としていないのである. II節のことばでいうなら, 対外折衝に携わる人材は, 会社が自前で育てる. 官公庁でも同じである. 採用何年目かに, 職員の一部を海外に派遣する. この人達が. 対外折衝役となるのである. 毎日のように英語を書いている筆者も, 日本にいる限り, 英語を しゃべる機会は少ない. みっつめ, 官公庁から出される文書に英語由来のカタカナ用語が氾濫していること. 公務員になる人たちは学生時代に英語の成績もよい. けれども, 役所に入ると, せっかく習った英語の使い道がない. そこで, 公文書に英語をカタカナとして潜り込ませて英語を使う (筆者の邪推か?). 4つめに, 日本人が平均して英語が下手なのは, 平均して英語を必要としない からである. 日本語で用が足りるからである. 日本語の資産が豊富にあり, 今後も自然に増え続ける. 英語への要請は 少ない.

国民が平均的に英語ができないことは誇るべきことである. 「これからのグローバル化の時代に, わが国の若者や子どもたちを, 常に英語コンプレックスに落ち込ませてしまいかねない」 (中嶋嶺雄, 朝日新聞2008年10月25日夕刊, p.10))との見方は, 英語を対外交渉に使う職業人の持つコンプレックスを一般人に 広げてしまう過ちを犯しているように見える. ピアノが弾けないことをコンプレックスに感じるべきだと中嶋嶺雄氏が 言っているように聞こえる.

TOEFLの得点に関する誤解を解いておこう. 2002年の通商白書に引用されている 2000年のTOEFLの得点の国際比較のグラフによると, 試験は300点満点で、 シンガポールは683人受験して253点、インドが3万8,000人で245点、 日本は6万人で183点、注目すべきは韓国で, 5万人受験して202点と, とても高い。 このことから日本の英語教育には問題があるという方向に議論が進む.

前節の議論を応用して点数の意味を解釈できる. 韓国の場合, 人口は日本の人口の四割である。 韓国の対外折衝人口は日本の対外折衝人口より絶対数として少ないけれど、 相対数は多いはずである。数値を入れてみよう。たとえば、 日本では対外折衝人口は全人口の二割, 韓国では全人口の三割としてみる。 絶対数にすると日本の2400万人に対して韓国の1400万余人である。 日本では10人に2人が英語ができ, 韓国では10人に3人英語ができると解釈 する。簡単のため, 英語のできる人はTOEFLで300点, 英語の できない人はTOEFLで150点取れるとする。いまでたらめに国民から 10人選んでTOEFLを受験させる。平均点はどうなるか?

日本の場合、8人が150点で2人が300点だから、平均点は180。韓国の場合、 7人が150点で3人が300点だから、平均点は195。この結果は、人口の 小さな国ほど英語を必要とする人口比率が高いという事実を反映している ことを示しているのであって、それ以外の何物でもない。 インドに当てはめてみる. 10人のうち何人300点を取ると平均点が245点になるか というと, 6.3人と出る. 人口の過半数が英語を使う、と出る. 共通語が英語で あることが表れている. ずいぶん粗っぽい非現実的な計算と思うかもしれないが, 精度のよい議論をしても結論はそう変わらないはずだ.

この時点で, 平成15年の文部科学省の記述に戻ってみる. 「世界平均水準の 英語力」に言及している. 筆者の分析によれば, そのような英語力は存在しない. あるのは旧植民地の英語力と国の規模に応じた英語力だけである. これ以外に強いて挙げるなら, 中国やロシアなどの多言語国家の英語力である. 国内の意志疎通のために仕方なく英語を使っている国の 英語水準に日本人の英語技量を引き上げる必要はないし, 国が小さすぎて科学 技術を英語でしなければならない国の英語水準にまで日本人の英語技量を上げる 必要はない. (人間エネルギーの壮大な無駄である.)

「国民の英語力がGDP(国内総生産)と並んで、国力の比較数値になる時期が やがてくるだろう」と中嶋嶺雄氏は強烈な予想を述べる (朝日新聞2008年10月25日夕刊, p.10). 本小論の議論からすると, 中嶋氏の この予想には根拠がないように思われる.

III. 各種学会と英語の関係


多くの学会は, 和文学会誌と欧文学会誌を出版する. 2種類の学会誌の 重みの置き方から学会を粗く四種類に分けることができる.

表 II. 学会の分類.


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学会   和文学会誌     欧文学会誌
-----------------------------------------------
学会 A  和文学会誌       -
学会 B       和欧混合学会誌
学会 C  和文学会誌      欧文学会誌
学会 D    -       欧文学会誌
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和文のみの機関誌を出版する学会, 和文と英文が共存する機関誌を出版する 学会, 和文機関誌と英文機関誌を並行して出版する学会, そして英文機関誌 のみ出版する学会, の四種類である.

いくつか注意が必要であろう. ここでは論文誌としての学会誌を問題にして いるので, 学会ニュースや, 書評・紹介記事を載せる学会誌で, 未発表論文を 掲載しないものは対象としなかった. たとえば, 天文学会や物理学会は, それぞれ天文月報と物理学会誌を発行して いるが, 未発表の研究論文を歓迎しない. 研究論文は英文誌に投稿して くださいとの態度である. 天文学会や物理学会は学会Dに分類できる.

学会Aの代表例は, 史学会と考古学協会である. 対象が日本の歴史なら, 欧文で 書く必要はない. 海外の研究者が論文を書きたいなら日本語の文献を読みなさい と言う態度. 筋が通っている.

欧文学会誌を発刊するに至るコースは学会B, 学会C, 学会Dの順であるように 思われる. 1990年代になって欧文学会誌を発行する学会が増えた. 多数の学会の動向を見て, いわゆる「グローバル化」には2つの意味合いが あることがわかる. ひとつは個々の学会が英文機関誌を出版し始めることによる 分野の「グローバル化」であり, もうひとつは日本の学会全体とは言わぬまでも, 多くの学会が揃って英文機関誌を出版し始めることによる日本の学問全般の 「グローバル化」である. 3つめの「グローバル化」は直接は見えない. 雑誌の言語が世界中で英語に集中することによる「グローバル化」である. むしろ, 英語の「寡占化」というべきであろう.

表IVを見ればわかるように, 英文機関誌にすることがそれほど必要でない学会 もある. 表IVからは, 日本の学会の苦悩が見える. 機関誌を英文のみにして しまった学問分野は, 一般読者に日本発の成果を伝えることができないことに 悩む. 一方, 英文機関誌を持たない分野は海外からの建設的な意見を取り込む 機会を持たない.

折衷案として, 表IIIのような形を考えたい. ただし, 労力は多く, 直接的な 利益はない.

表 III. 解決策のひとつか?


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学会名 学会創始 和文機関紙名 創刊年 英文機関誌名 創刊年
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仮想学会 2010 仮想学会誌{1} 2010 J. Imaginary Soc. 1 2010
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{1}和文機関誌と英文機関誌の内容は同じ.

謝辞. 国立民族学博物館の出口正之氏とメディア教育開発センター (2009年4 月放送大学と合併)の小林登志生氏には, 本小論の内容について詳しく議論して 頂いた (文献8). 謝意を表する. 本小論は, 中嶋嶺雄氏の朝日新聞の記事に触発されて書いた ものである. 中嶋氏に感謝する. 総研大新領域プロジェクト『何語で教え、 何語で研究すべきか・・・「言政学」構築へ向けて』(代表: 出口正之)より 旅費の援助を受けた.

参考文献


谷川清隆: 2003, 日本語と日本の科学, 天文月報2003年8月号, 443 - 452.

谷川清隆: 2004, 英語で発信する数理科学者たち, 総研大ジャーナル, 2004年5月号, pp. 44 - 45.

谷川清隆: 2004, 論文は英語だけでなく日本語でも, 朝日新聞, 水曜日科学欄, 「直言」, 2004年5月19日.

谷川清隆: 2004, 書きだしは日本語? それとも英語?, 天文月報 2004年12月号, 97巻, pp. 719 - 725.

新聞報道, 見出し: 2005, 科学語る日本語に心配 (英語でどうぞ 中), 朝日新聞, 新科論 (p.20), 2005年8月30日.

谷川清隆: 2006, 天文学者は歴史を書く, 天文月報 2006年6月号, 99巻, pp. 317 - 323.

初等中等教育分科会委員の名簿は
http://www.mext.go.jp/b\_menu/shingi/chukyo/
chukyo3/meibo/08021206.htm
教育再生会議有識者の名簿は
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/kousei.html

総研大新領域「言政学」研究会 講演,
2008年12月13日(土) 東京・品川インターシティ
2008年12月14日(日) 大阪・民族学博物館.


表 IV. 機関誌の性格に基づく学会の分類.

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学会名    学会創始 和文機関紙名 創刊年 英文機関誌名 創刊年 会員概数 {*}
-------------------------------------------------------------------------
史学会     1889 史学雑誌 1889 -
日本史研究会  1945 日本史研究 - 3,000
日本考古学協会 1948 日本考古学 1994 - 4,000
日本語学会{0} 1944 日本語の研究{0} 1948 -
人文地理学会  1948 人文地理 1948 -
(英文要旨)
社会経済史学会 1930 社会経済史学 1931 - 1,400
              (英文要旨)
経済理論学会  1959 季刊 経済理論 1961 - 1,000
日本倫理学会  1950 倫理学年報 1952 - 1,000
-------------------------------------------------------------------------
日本言語学会  1938 言語研究 1939
日本人口学会  1947 人口学研究 1978
国際法学会   1897 国際法外交雑誌 1902 1,000
日本基礎心理学会 1981 基礎心理学研究 1982 700
国際開発学会  1990 国際開発研究 1992 1,800
日本哲学会   1949 哲学 1950
-----------------------------------------------------------------------
日本教育学会  1941 教育学研究 1932 ESJ{1} 2006 3,000
日本科学史学会 1941 科学史研究 1941 HS{2} 1962 1,000
日本心理学会  1927 心理学研究 1926 JPR{3} 1954 7,300
日本社会学会  1924 社会学評論 1950 IJJS{4} 1992 3,600
日本農業経済学会 1924 農業経済研究 1925 JJRE{5} 1999
日本森林学会{6} 1914 日本森林学会誌 1919 JFR{7} 1996 3,000
粉体工学会   1956 粉体工学会誌 1964 APT{8} 1991
日本地震学会  1880 地震 1929 JPE {9} ---> EPS{10} 1952 2,300
------------------------------------------------------------------------
日本天文学会  1908 (天文月報) 1908 PASJ{11} 1949 1,600
日本物理学会  1877 (日本物理学会誌) 1946 JPSJ{12} , PTP{13} 1946
日本生化学会  1925 (生化学) 1929(?) JB{14} 1922 11,000
日本分子生物学会 1978 - GC{15} 1996 15,300
日本免疫学会  1970 - II{16} 1989
日本人類遺伝学会 1956 - JHG{17} 1956
------------------------------------------------------------------------
{*} 調査は2010年1月. ただし, 概数は古い数値の可能性あり.
{0} 名称変更は2004年より. 変更前は国語学会, 国語学;
{1} Educational Studies in Japan;
{2} Historia Scientiarum;
{3} Japanese Psychological Research;
{4} International Journal of Japanese Sociology;
{5} The Japanese Journal of Rural Economics;
{6} 名称変遷あり;
{7} Journal of Forest Research;
{8} Advanced Powder Technology;
{9} J. Physics of the Earth;
{10} Earth, Planets and Space;
{11} Publications of the Astronomical Society of Japan;
{12} Journal of Physical Society Japan;
{13} Porg. Theor. Physics;
{14} Journal of Biochemistry;
{15} Genes to Cells;
{16} International Immunology;
{17} Journal of Human Genetics


Distance to English



Kiyotaka Tanikawa
National Astronomical Observatory of Japan,
2-21-1 Osawa, Mitaka, Tokyo 181-8588, Japan

Summary


The author discusses two topics on the use of English Language in order to keep a sound distance from it.

(1) The relation between the necessity of English and the size (population) of a country.

(2) Treatment of English as a journal language in various academic societies in Japan.


The author discusses quantitatively the necessity of English (as an international language) as a function of population of countries through a simple geometrical model. The basic idea is that in each country, there are people who do not use English in their life, and that their relative population increases as the size of the country increases. Japan is the biggest non-English country who has a single language. The author argues that English conversation in the elementary school is not necessary in Japan because the necessity for English is small.

In the second topic, the author surveys the usage of English as a journal language. It turns out that there is a very simple tendency in the Japanese academy that the weight of English increases monotonically from social science to natural science.


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